昭和51年04月01日 歓学祭



 本日は皆様おめでとうございます。お月次祭に合わせて歓学祭は恒例になって、こうして奉仕させて頂きました。続いてまるしょう大会、皆さんがいわゆるお道の若葉がすくすくと育っておると言う事を大変心強くあり難い事だと。またもまるしょうの前身であります椛目時代から合楽にかけて、少年少女会という子供会の中でお育てを頂いた人達が、今、こういうおかげを、また、松栄会の中心、又は今年はまるしょう育ちであります所の永瀬君、それから梶原君がもう、金光様の先生になって。
 本当にこの人達がしだごだな事ばっかり植えております中に何とはなしに信心を身につけていって、信心の尊い事、有り難い事がいつのまにか分かっていっておると言う事。そして愈々自分の助かりだけでなくて多くの世の中の難儀な氏子が、取次ぎ助けられ、と言う様な事の御用に転身させて頂こうというのですからこんな有り難い事は無い。今日のあのまるしょう諸君の中から。また合楽の次の時代を担う総代も又は幹部の方達もそれぞれに育って行く事だろうと思います。
 本当に子供も今朝からの私の御理解にも皆さんに聞いて頂いたんですけども、私は少年時代にいつも聞いて頂くように、親先生と岸先生の対話の中から、もう沢山な事はいりません、親先生一人の本当の信者を育てて下さいと。話しておられるのを横で聞いておって、その本当の信者に私がなろうと思うた時に大変感動した話しを、まあさせて頂いたんですけども本当に一つ、本当の信者に本当の信心を目指させて頂くと言う事。ここがまあ、一番大事ではないかと思います。
 私も今日で満62歳にならせて頂きました。これからももうそれこそ五体の続く限り神様にお喜び頂ける御用も中々出来ませんけれども、まあお願いをしてお使い廻しを頂きたいと念願させて頂いております。今日こちらへお祭りの始まる寸前でしたから、御本人には返事も致しませんでしたけれども、北野の中村さんが用意しておられる所に見えられまして、先生ちょっと、今日はもうお願いをせんなん事が起こりました。
 今日娘婿から今日電話が掛って参りました。その電話はその電話の新設を願ったけれども、電話をつけてもらったのは良かったけれども番号が悪い。先生それが0044と。0044だから、そのまあでけるならば変えて貰いたい。でなかったら何かあり難い御理解でも頂きたいと。そこまではまだ聞きませんでした。けれどもとにかくならお祭りに出るからお願いさせて頂こうというて、その事も御祈念の時に一緒に、神様へお届けをさせて頂きましたら。
 この頑丈な大きな男に小さい赤ん坊がおんぶしておる所を頂きました。ああこれは00に44する事だなと私は思いましたね、ここ辺ではおんぶする事をよんよんするっち。ね、00と言う事はあるやら無いやらわからん、もう0といえば0、ありといえばありという。神様です。00によんよんする、と。中村さんわかった。電話で待っとるげな、息子が。すんだら電話をかけにゃならん。どげな風な御理解を頂くか。でなかったら取り替えてでももらおうと、こう言う事です。
 しかし頂き方ですよね。こりゃその代わりに00によんよんしとかなければだめです。ぶらさがっちゃあだめです。ぶらさがったら自分もきついが神様もきついです。こうぶらさがっとるんなら本当にもう、要は足手まといの感じであります。ならそげん足手まといなるごとあるんならば、お参りせんがよかお願いせんがよかと言う事ではないのです、ね。それだったら愈々もっていけません。
 けれどもお互いの信心が例えば私も62歳の今日から改めて神様にお願いさせてもろうて、お役に立たせて頂く、それこそ神様に本気でお縋りをすると言う事は神様にしっかりおんぶすると言う事だと思うんです。ぶらさがっちゃ神様がお使いにくい、神様に本当にひとつよんよんして、愈々お役に立たして頂かなければなりません。しかも今朝から頂きますように、ね、あれもおかげであった、これもおかげであったと解る様になる。そうなれば本当の信者じゃと仰せられる。
 本当とは真実と書いてある。真実の信者を目指させて頂いての信心。私は00によんよんすると言う事はどう言う事だろう。ぶらさがると言う事はどう言う事だろう。銘々ひとつ思うてみなければいけないと思うんです。昨日一昨日の朝、ここで丸少の御用をしております2番目の息子の子供が女の子が生まれました。もうそれこそあたしは、もう本当に医者の言う事ばっかりは当てにならんといつも思うんですけれども。
 その前の前の日にああいう、その恵美子奥さんの体が異常だからとにかく、もう10日もぬいておるとだから、そのまあ人工的にせにゃいけんから今日、やって頂く様にと言う事であった。だから私が言わんならんとは知らなかった。だから裏の方でそう言われますから、そうかと思うとったら、あの丁度またその日は休みでもありましたから私しもなんもいうとりませんでした。
 所がこの翌々日にはあぁ無事に安産のおかげを頂いた。夜中にもようしが始まったというから、すぐ小野先生の所に電話を掛けよった。そしたら中々出ませんで、ようやく出た所が、その模様を聞かれて、小野先生がそんなら、まだそげん慌てなさる様な事は要りません。明日で良かでしょうちっ、いわれたそうです。そげな事があるものか、お前今夜夜中にあれしていかんから、とにかく行ってて。
 栄四郎も起きてるし、乗せていってもらって病院にいっとらなければ安心がでけん。だから私しはそれこそ、小野先生はあのうそげん慌てなされんでよかって言ったけれども、私しはやりました。やりましたらもうすぐあの、始まってそれから分娩室に入って20分間で生まれた。あくる日小野先生が出て見えてから、もうあげな異常な妊産婦は初めて預かりましたから、そうにゃもうこの1月から気をよわめとった。
 もうその為には伊万里のあっちから電話が掛って来た。だからその電話を聞くたんびにあっちのお父さんとお母さんは大変心配しておられた。私しに言うたっちゃ、その受け付けんものだからそんな事だったんです。医者としてはそんなに心配しておったんですけれども、実をいうたらそれこそ、あの小野先生が言うように明日の朝いきますけんと言うとるなら間に合わんとこじゃた。と言う様なおかげを頂きました。
 それでその朝早速神様にお届けさせてもろうて、お名前を頂こうと思うてお届け帳にはもう、大坪と書いて下にお名前を頂くだけにして、あのお願いをしましたけれども、どうしても頂けません。また午後の奉仕の時に願いますけど尚頂きません。それからあくる日ここへ又御結界へ着いてお名前をお願いしますけれども、それでも頂きません。こりゃあ、どう言うな事であろうかと私しは思うて神様にお願いさせて頂いておりましたらね、あの親という字。
 漢字で親という字は立つと書いて木を書いて、して見ると書いてある。その立つと書いて木という字が無い所を頂くんです。親という字のね、立つという字を書いてこちらに見るという字だけを頂くんです。木は無い。ははぁこれは親に気が無いからだとあたしは思うた。もうそりゃあもう親子の仲じゃから、もうじっちゃんがちゃんとお名前は頂いて下さるじゃろうと思うとるという意味でしょう。ね。
 けれどもお道の信心はどこまでも親であろうが、子であろうが孫であろうが、矢張りお取次ぎを頂いてお願いをすると言う事に実意を欠いてはならない。それから1時間ばっかりしましたらこりゃあいうてした時間からこりゃあ何日掛るやら解らんと、こう思うておりました。そしたら1時間後にちょっと、あの改まってお初穂してそれから安産のお礼をした朝でした。そしてお名前を頂きたいと。もうすぐに頂きました。安泰の泰と頂きましたから大坪泰子という名前を頂きました。
 そう言う様な事からです。お道の信心のなんたるかというかね、いうならば実意という事がいかに大事かと言う事を解らして頂きました。私し共がねなら神様におんぶをするとかぶらさがっておるとかと言う様な事が、どう言う様な事かと。まあそれは色々ございましょう。けれども私しは日々お取次ぎを頂いて、万事の上に手落ちのないような信心をさせて頂くと言う事が、もうしっかり神様におんぶした姿ではなかろうかと思うのです。これならば神様も安心、毎日例えばならお届けがあっておる。
 さあ難儀な事になってから、えぇ実はこうこうと言ったのではもうそれはあたしはぶらさがっておるようなもんじゃあないだろうかと、こう思う。ですからとにかく日々のお取次ぎを頂いての、いうならもう1から10までお取次ぎを頂いて神様のおかげで今日がという生き方を身につけていくと言う事が神様におんぶしての御信心。これなら神様も軽々とおんぶして下さる、自由におできになられるそれに縋とったんじゃあ、矢張り御用の神様とても矢張り、どう言う事になりますかね。
 煩わしくおありになるだろうと思います。どうぞひとつあのおかげを頂きまして、あたくしも愈々また改まった心でこれからの御用にお使い回しを頂きたいと思う。皆さんもやっぱりどうぞ実意な信心、いうならば物事というものはいうなら頂きよう。今日頂かねばならんと思うても中々そう頂けん、ここでは喜ばんならんと言う事が解っておっても喜べないような不自由なものが私し共の心なんです。
 ですから私し共の心がいつでもお取次ぎを頂いたらきちっと、そう頂ける。ね、0044と頂いたら、もう本当にそれこそ0044になろうごたる。けれどもね00によんよんすると言う事になったらとても気が楽になる。ね、ですから気は楽になっただけじゃあいかん。本当によんよんするという信心が出来なければならんと言う事でございます。御挨拶代わりに。